クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

毎日更新

前回浮上したときはできなかった。

 

 

このごろ何人かに、

意識や興味が途切れて個々に存在しているみたいね

全体でひとつととらえて流れを感じてみたらどうかしら

みたいなことを言われて

確かに文を書いてみても

改行せずに同じ話をずっと続けられるかというと、

 

いやです、沈黙です

 

 

このところは

何かを語るよりも

沈黙のほうがずっと雄弁じゃないかと

思っていて

語るのが

少し

怖いというか

 

「思っていること」をそのまま書くことが

どんなに生身で

どんなに伝わらなくて

どんなに誤解されてしまうか

みたいなことを

 

いいえ

 

すぐこうではない

ああでもないと

自分で「違う」を繰り返して

同じところに立ち止まってばかりです

 

自分じゃないものの話をしているとき

ものすごく

知ったような口ぶりになるのがいやで

たとえば何の国が何年にできたとか

見たわけでもないことを

事実のようにしゃべるのがいやになりました

 

何もわかりません、わかりません

 

汲んでほしいのではなく

言葉にならないものを

言葉にしたくないのです

 

 

 

ひとつひとつを大事にしてしまうなら、

次はとにかく量を増やすこと(できなくっても)

 

絶望よね、できる見込みがあって何の問題もないというのは

 

たぶんそんなものよりも人がいる優しさを感じたくて

なぜならどうやったら優しくいられるか

わからないからです

大丈夫? という愛情を、はねのけてきたからです

心を傾けることしかできない

心を傾けない優しさを身につけられたらなあ

 

いいえ、きっとこれは

激しくて大きい言葉を使いすぎている

から

あまり

 

ゆっくりと人間の形に戻る

 

礼儀というよりも

愛情を常に

持っていたいです

 

 

ええ

 

愚痴や文句が

具体的に

出ることはあまりなくて

普遍的な形にとらえるから

別に

あの子に腹が立つとか

これがいやだとか

そういう形では出なくて

 

そういうのが向いてないって言われるなら

もうなんでもいいです

 

と、すぐ

じゃあもういいよと

思ってしまう

 

「じゃあほんとにいいんだね?」「言ったね?」じゃなくて

 

何か言って

 

待つことには

慣れてしまった

 

心を傾けたいから

心を傾けずにいろんなことが

できるように

なりたい

久しぶりに書こうかなと思った。

何を書くわけでもないけれど。

今日から。今から。

きっと物事をよくしていける。

いろんなパズルのピースを集めて嵌め込むように、

欠片を集めていて。

どうして人は誰かと一緒にいたがるのか。

 

相変わらず思いついたことをそのまま順番に書いているから、これは本当は文章でも何でもないと思う。思考のたどった道を記しているだけで。

お前たちは私たちを食べる。

文章は整理してこそなのではと思いました。

そしてとても眠い

何かがモヤモヤする

何かがモヤモヤする。
それを言葉にするため、それを形にして残しておくために、書いているのだと思う。

高校の頃から、この感覚を忘れてしまうような大人になりたくないと思い続けて、文を残していた。
創作こそしなかったけれど、言葉にしようとする試みは昔からしている。
そういう人ばかりではないと気がついて、驚く。

生きる目的

「キャリアパスを計画する」のでも、「プライベートを充実させる」のでもなく、人生に目的がほしい。
役割ごとの話ではなくて人生すべてを一貫する目的がほしい。生き方に指針と目的がほしい。
惰性で、もしくは目の前の問題をどうにかするためだけに、生きていると、だんだんすべてが鈍くなっていく。
生きる上での注意点を探したりもしたけど、そうじゃなくて、「生きるためにこうしなくてはならない」は、本当は全部、「ほしいもののためにはこうするのが一番よかった」っていう歴史の提案なんだ。そして、損をしたくないとかできるだけラクに、とかはみんな十八番なんだから、みんないつかはどこかへたどり着けるはずなんだ。(希望)

今日は疲れています
感情が、つらいと死にたいの往復をしている

言葉にすること

言葉はスタート地点ではない。
ネットの世界や学問の世界ではしばしばそれを忘れてしまう。
言葉から新たな現象を作り出すことは本来は少数派であって、
大体は何か、モノやコトを指し示すために生まれるものだ。
視覚的なイメージや、手触り、音、匂い、感覚、温度など、さまざまなものと繋がっている。

学校でテストのために覚える言葉や本で知った言葉などは、言葉は知っていても、その言葉が指し示すものは大体まだ体験していない。
そうすると、言葉からその様を想像することとなり、現実に体験してから名付けるのとは少し違った体になってしまう。
言葉から想起するものが、それが指し示す対象そのものではなく、机上で覚えた類義語だったり対義語だったり、はたまたテストの長文で見たというような記憶であったら、それは(もちろん言葉を扱う上では役に立つだろうが)現実に起こる事象を扱うには不便なように思う。

曲がり角とか呼ばれるもの

もうどうしようもない、どうしていいかわからないと思ったとき

・物理的な断捨離(自分の身の回りのものを捨てる)
・時間的な断捨離(何にどのくらいの時間をとっているかみて、やらないことを決める)
・精神的な断捨離(心配や不安は身体によくないのと、愛情をもってことに当たるほうがうまくいきやすい、心配なことは今できることを書き出して行動に移すといいし、集中する先を選ぶ)
・文章を書きまくる(人の目にさらすのもよい)





私はもともととにかく言葉が出やすいタイプなのだろうと思うのだけど、感情的になっているときに出てくる言葉って(受け止めるのがよいけれども)必ずしも正しいとか本当の感覚とか思う必要はないんだなということを思っている。
昔から「させられている」感覚が強くて、操作されるのが大嫌い、影響されるのもきらい、説得されるのもきらい。
自分の意志でやるのはがまんならないけど従わざるをえないなら全力で従うよっていうのもあった。
あと何か言行一致してほしくて、実現しないなら言うな、言うなら実現させろ、みたいな部分があった。
感情やなんとなくモヤモヤする、というようなことを理屈で「なにもない」と処理しようとして、よくつまづいていた。泣きわめく自分に「そんなことしても意味ないでしょう」と言い、自分自身「確かにそうだ」と思い、泣きわめく自分をなんとか(自分の都合に沿うように、自分の理屈で)なだめすかそうとしていた。(ただそれは自分のもっとも嫌うもの、操作であった)

断捨離とは更新作業なのだな
言語化は認識したり終わらせたりするための作業なのだな

またくる