クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

弱気

ここ一ヶ月ほど、自分の中の「過去の自分」が暴れていて、止める気にもならず、後悔するのかな、と思いながら低空飛行を続けてきた。うつの自分を受け入れるところから始まった自己変革を追体験していたふしもある。肝心な山場を越えるときはいつも何が起きたのか言語化できなくて、もやもやしていたせいもあるかもしれない。とにかく先へ進むのを優先して、言語化はいつも諦めたけれど、何が起きたのか自分の中で定義できていないと腑に落ちないのかもしれなかった。

よく言われることには、「過去は手放そう」とか「なりたい自分になる」とか、「目的意識を持とう」とか「タスク管理で生産性アップ」とか。生きるのにこうするといいらしいってことのヒントはいくつでもネットに転がってて。でも私にとっては、過去の自分は自分に似た他人でもあり、どうしても、助けるまではせずとも、冷たくはしたくないと思ってしまう。もう苦しいのは嫌で、とにかく自分の望みを叶えるために手段は選ばないでいくと決めて、なんでも採用して使えるものは取り入れてきたけど、どうしても、効率化と生産性の追求をすることで抜け落ちている何かが、気になってきてしまった。時間もお金もエネルギーも、節約するのは大事な何かに注ぐためであって、使わないでおくことや節約自体が目的ではない。(お金はともかく、エネルギーは使わなければ衰えていくしね。)

感情だけではうまく回らないのはもちろんなんだけど、理性だけでもやっぱり馬力不足なんだよ。エネルギーの多くは感情的な部分から出ていて、それをうまく変換して、理性と組み合わせることでもっと驚くほど楽に動けるんじゃないかと踏んでいる。エネルギー革命! 「やりたいことをやる」っていうのは、言葉通りに受け取るのは危険すぎる言い方なのだけど、やりたいことをやっている感覚でいると、身体の動き方が違うのだ。むしろ、「やると自分にいいことがあるもの」をいかに「やりたいこと」に寄せていくか、という問いでもあると思う。

ただ、「自分にいいことがあるものが、やりたいこと」だけに偏ると、いわゆる人間らしさっぽいものや柔軟性が失われやすい気もする。不条理もあるのが人間で、それをすべて排除しようとすると、自分もどこかうまくいかないだろうし、大多数の人に共感できなくなったり当たりが強くなったりしそうな気がする。自分に得があるかどうかは、やってみないと分からないし、何からでも学ぶことはできる、というのもまたひとつの考え方だからだ。矛盾するものを突き合わせて、その間の道を探る(アウフヘーベンを目指す)場合もあるが、多くの場合は、二つの間でバランスをとることが必要になる。こればかりは、試行錯誤で経験からなんとなく学んでいくのがほぼ唯一の近道だろう。

私は、分からないことをもっとたくさん理解したいし、知りたい。仕組みが知りたいし、パズルが解きたい。初めはとにかく漠然と「このままはまずい」「もうこんな思いはたくさんだ」というところからスタートして、Twitterからはてなから、Googleから、いろんなものを読んで、いろんな知識と刺激をもらって、それを解釈したり組み合わせたり実行したのは自分だけど、その最初の知識がなかったらほんと何も立ち行かないよなー…と思って、他者と歴史の積み重ねと技術の進歩に感謝している。(こういう思いが自然と湧いてくること自体、過去の自分としては「ゲェ、まじかよ」的な感想で、しくみが知りたいのだが、そろそろ理由探しに意味があまりないことがなぜか直感で腑に落ちたのでやめたほうがいい。)

 

ほんとうは、整理がついてから、今度こそ読みやすい形で書いて……なんて考えていたのだけれど、諦めてまた「今」の考えをだーっと書くことにする。そのほうが勢いあるし、保存できるしね。一生懸命とか、本気とか、いろんな言葉があるけど、そういう状態が今一番面白いからさ。(お願い、ひかないで。流れ弾はできれば避けて。)リアル人生ゲーム、全力で楽しんで有利に進めることが最大の経験値稼ぎであり、防御と攻撃である……。

 

追記:

思えば、これまで「がんばって」これたのは、とにかく社会的な死を免れるためであったのだけれど、いつの間にかもっとアクティブな選択をするようになっていて、自分の内面の一部が「いや、これやらないと苦しむっていうから苦しいのは確かに嫌だと思って納得したけど、いま自分から苦しみに向かってない? 大丈夫? やばくない? あたまおかしくない? 付き合ってらんないんですけど」と反乱を起こした、ということなのかもしれない。(と説明がつくと納得するのが癖である)