クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

20160827 なんとなくで動けば全てがそれなりにできてうまくいく天才になりたかった

子供のときはなぜか、普通にやっているだけなのに他の子よりうまくできることが多かった。

勉強とかね。

まじめにやってないのに普通にいい点が取れて、いい順位が取れて、そして進学校にいく。そして、自分がただの人だと知る。二十過ぎればなんとやら、というパターン。

努力しなくてもなぜかいい結果が出せて、逆にちょっといつもよりやったぐらいじゃあまり結果は変わらない(ように思えた)。それで、ただでさえ慣れない努力という行為がますます好きではなくなって、どうせ同じならやらなくていいや、と思う。努力したのに結果が悪くてがっかりするより、努力していないのになぜかいい結果が出せたときのほうが、何か得したようで、自分の才能が感じられるようで、気分がよかった。そもそも努力が必要なんて、本物じゃない。結局は努力より才能、才能に勝てるものはないと信じていた。

それは何の役にも立たない思想だった。自分に才能があると信じていられるうちは自分の能力に甘えて特に努力はせず、自分に才能がないと感じるとその時点で何をやろうがどうせ二流だとすぐ諦める(三流だとは思わないところがまた小憎らしい)。やったことのないことは、できない自分を見るのが嫌で、やらない。そのくせ、ちょっとやればそれなりにできると思い込んでいる。

 

それは、何もしないで全てが勝手に提供されてきたらいいのに,全てをやってもらえたらいいのに、と願う感覚と似ている。何の労力を使うことなく全てが思い通りになり、なんとなく頭に浮かんだことをして、なんとなく気が向いたことをして、なんとなくその場でごまかして、それでうまくいけばいいのに、という願いと似ている。

子供じみた願望だけれど、どんな突拍子もない願望でも、叶わないと突きつけられるときは悲しい。

 

 

努力より才能だと信じていたときに、知らなかったこと。

 

人は変わりうるということ。

それは自分にも可能だということ。

でもそれは、何もしないでいて起こるわけではないこと。

楽しい努力が存在するということ。

 

こういった言葉が自分を責めるためにあるわけではないこと。

 

努力と言うか、無意識だけで行動するよりも、自分を振り返って頭を使って考えたり、それを行動に反映させてみたり、実験したり、という意識的な工夫も用いるほうが結果もついてきやすいと思った。もし少しでも才能があるなら、なおさら。

(才能より努力、というのは、必ずしも事実ではないだろうが、それを信じるほうがいい結果が出やすいと私は思う。)