クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

あるべき場所へ

あるべきものがあるべき場所に配置されているというのはなんて気持ちがいいんだろうと思うようになった。

それから、世界をうまく(言葉や概念によって)切り分けることができれば、物事をそれぞれ分けてはそれぞれの場所へ収めるということが簡単にいくんじゃないかと思う。ずいぶん抽象的な言い方だけど。言葉が足りなくて自己完結してしまっているのは昔からだな。

少しずつ、生活においてコントロールできる範囲が広がっている。あらゆるものの選択をできるだけ意識的に行うとか。自分の部屋の中は徐々に秩序を持ち始めている。まだまだ混沌も残っているけれど。

私の部屋の外は相変わらず混沌としているように見える。私にはまだ手に負えないと思う。

こういう形だとしてもブログももう少し書きたいと思うし、できればもう少し誰かに向けて書いてみたいと思うけれど、生活の中にそれを組み込もうとすると他がとても入らないので、今はまずどんな形のブロックがあるか確かめているといった感じ。手書きでノートか手帳に記録をつけるのも惹かれている。

少しずつ生活を快適にカスタマイズしている。とてもいい。ただ、そういうときに母が私の行動を「○○しているんだね」と言語化するのが苦手だ。母は、例えば運動もバランスのいい食事も「いいことだからしなくてはいけないけどなかなかできない」という捉え方で、私のことも「がんばっていて偉いねえ」と言う。私はその考え方が苦手だ。私も以前はそれと同じでとても引っ張られてしまうし、今はそうじゃないと思っているから。これが一番自分にとって快適だと判断してやっているわけで、努力がないとは言わないけれど、いわばやりたいことをやっているつもりなのだから。母に言語化されると、私の行動が「がんばり」として規定されてしまうような感覚になる。それが苦手だ。