クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

言葉の形に掬い上げる

「コミュニケーションにおいて、自分が何かを伝えたいなら、それが伝わるための、もしくは納得するための工夫を最大限にするのがよい」という仮説を得て、自分の言うことや書くことをできるだけ俯瞰で監視するようになった。

工夫をする、とは、ともすると、まるきり素のままではない、と過激派によって、うそをついていることと同列にひっくるめられがちだが、とりあえず、そうではない、と言っておく。

(こういうときに出てくる過激派とは大体昔の自分の一部分みたいなもので、まともに反論する余裕がまだない。というか、もはや反論する気はない。面倒を見るより他のことをして過ごしたい)

そもそも相手への印象を100%操作することは不可能だし、できるだけ食べやすくしようとしていると言いたかったこととの乖離が激しくなってしまうこともある。

そのままの素材でなく、「工夫」されていると聞くと、心的距離を感じたり身構えたりする人もいるだろう。

いつもあけすけに本音を言うような人がその内容次第で反感を買っていることがあるが、別の人がふともらした本音が同じような内容で好感を買うということもある。だが、それは別の場面で「今はああ言っているが、本当はこう思われているんじゃないか…」という無用の不安の種を生み出したりもする。

ところでこの文章は、多少読みやすいように意識されてはいるが、特に大きな工夫はされていない。なぜかと言うと、何が言いたいのか、私も掴めないでいるからだ。自分の中で何かは分からないけれど何かがあるとき。それを掬い上げるために、外側の誰かに向けて話し始める。

言葉にならない何かを掬い上げるとき、出てきた言葉ともともとあった何かは、厳密には別のものだ。ただ、そこにあるだけでは、そこにあるなと思うだけで正体はまるでつかめない。それが何か自分にとって大事なことなのか、この先どう変わるのか、いつかこれだと思える言葉になって出てくるのか。だから、大抵の場合は多少の不正確さは考えないことにして、さっさと掬い出す。そうすると、そのものをよりはっきり見ることができて、それを庭をつくる石にしたり、道のレンガにしたり、階段の板にしたりできる。

出てきた言葉は、もともとのぼんやりした状態から何かが抜け落ちているが、何かが加わってもいる。そこに何が加わるかは、その言語化を誰に向けて行っているかが影響している。だから、その自分が知らず知らずのうちに得るであろう影響と、その相手に与えうる影響と、その他もろもろを組み合わせて、誰に向かって話すのか、書くのか、ということを選ぶのだと思う。

「相手に送るつもりになって書く、そして送らない」というのは、どうも本当に送るのだと思い込まないとうまく作用しなくて難しい。それなら、素直にやったほうがいまのところはまだましだ。

「掬い上げられる前の何か」「その人のそのままの本音」というのはあってないようなもので、それにこだわりすぎたり、それ以外を偽物として扱ったりすると、大抵うまくいかない。

大抵、というのは、たまに、本当にどの言葉で掬い上げようとしても言葉になった途端にバラバラになって均衡を失ってしまうと思えるようなときがあって、きっとそれはそのときの私の認識と日本語で切り分ける能力の限界なのだろうと思う。それを、バラバラになってしまうから、実際に成り立っていないものなのだろうと言うことで物事は調子よく進んで別の景色を見られるものだけれど、立ち止まりたいときがある。

切り分けるのを怠っていると、いろんな部分がひっついてしまって、困る。それも切り分ける理由のひとつだ。切り分けはとても便利だけれど、たまに限界もある。どちらを忘れても、うまく回らない。