クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

新しい自分になる、ということをなめていた

(吐き出しです)

 

 

あることに集中的に取り組む期間が幸いにも長くあって、また、そうせねばならないと心から思う状況だったのもあって、私はある程度なんとか自分を変えられたと思った。

徹底的に自分に立ち向かって、全身が今までの癖に囚われたまま嫌だと叫んでいても、有無を言わさずに「新しく習慣にしたいこと」をやる。何度続けるのに失敗しても、もう駄目だ嫌だと思ってもやり続ける。そうしているうちに、その習慣だけでなく、そうやって新しい習慣をつけるやり方さえ、少し身についた。

初めは何度もすぐ絶望していて、またすぐ疲れていたけれど、周りの励ましもあって、それから習慣化を続けた経験もあって、少しは気が長くなったし、まず真っ先に心がくじけるのが自分の弱いところだと気づいて、立ち向かう心を強く持とうと工夫を始めた。

そうすると、初めは思ってもみなかった境地へたどり着いたりして、すごいと思った。たくさんのことが変えられたし、思ってもみないことができた。

状況に立ち向かう方法を思いつくのもうまくなった。どうしたらいいかも、とっさに正しい判断をするだけでなく、思いついた最善案を実行できるようになってきた。

 

そうすると、だんだん、変な思いが湧いてきた。

なんでこんな簡単なわかりきったことがみんなできないんだろう。しないっていうことは、私が気づいていないだけで、やらないほうがいいことなのかな。私がこれができるのは、恵まれているせいだから、もしかしたらやったらズルいかも。私がこんなに幸せに楽しく、苦しみを避けて生きているのは、不公平なのかも……。やりたいこととそれに必要なことをやっているだけなんだよ。そもそもやらないで生きていられるっていうことは、なくても大丈夫ってことじゃない? なんだかんだ、いろんなことができるといろんなことを余計に引き受けちゃってしんどいし、どんな人生でも苦と楽が同じだけあるならもうどうでもよくない? これに答えてくれそうな前の私がどんなことを感じていたか、もう忘れちゃった……。

どうも、自分が多くのことができると思うと、人の手伝いを余計にやったり何かを我慢したりして、自分のことを疎かにするくせが悪いほうへ作用したせいもあって、自分ばかり損しているような気分になってしまったんですね。いい思いをしているぶんのツケが回ってきているようにも思い込んでしまったというか。

それでここのところ、いろいろ放りなげてしまっていたのです。

あと、へんな「試し行為」みたいなものも出ていた気がします。できる私じゃなくても大丈夫だよって言ってよ的な、言ったからにはどれだけ堕落していても相手にしてよ的な。

 

 

でも実際は、どんな幸運があったにしろ、自分が頑張ったことも事実で。頑張って習慣にしたからこそ、半自動運転でわりと少ないエネルギーでやれるところまで持っていけたのであって。「努力で運よく成し遂げた人は他人にも努力を強いがち」みたいな言説を目にして、ビビってこれは運だとか何とか思うようになってしまっていましたが、実際、努力が報われるとは限らなくても、努力をするという賭けにはまず参加したんですよ。参加しなかったら結果はないですから。

自分のやったことをついなんでもないと思ってしまいがちで、そこで、なんで他の人はできないんだろうと素直な思想の暴力の押し付けみたいなことを始めようとする自分も嫌で。

でも、実際は、なんでもなかったわけじゃない。とにかく、不快から逃れたかったとか、不安とか、背中を押すいろいろなものがあったにしろ、私は注意力と思考と発想を駆使してPCDAをまわして、行動が疎かになりがちな自分を精一杯律して、主導権をオートから奪い返して、ひとつひとつなんとかやってきた。

その過程を、「簡単」とか「恵まれていたから」とかそういう言葉で、ごまかして忘れてはいけないと思った。

自分で選択権を持ったうえで真面目にひとつひとつやるのって、実は一番楽な方法だし、なんだって慣れればわりとできるようになる。物事を観察してどうすればいいかを考えるくせをつけたら、かなりいろんなことが瞬時に浮かぶようになって、怖いくらいだ。私は自分が今と将来にわたってなるべく快適なほうを選ぶようにしていて、それはほんとうにいいことずくめで今となってはやらない意味が分からないくらいなのだけれど、それだって本当は訓練しなければ到底できなかった。自分だってかつてはゆっくりと破滅へ向かっていた。そういうことを忘れてはいけない。(もっとも、忘れることでより早く前へ進めると思って忘れたふしがあるので、そこの折り合いの付け方はまだ分からないな)

簡単だからもっとたくさんの人がどんどん変わってもいいのにと腹を立てるくらいだったけれど、それが本当に案外難しく、また忍耐がいるのだということを忘れないでいたい。そして、その忍耐の日々からせっかく学んだことを、いちいち疑いにかけて直感を鈍らせるのをやめたい。自分の心身の動きを観測しているからこそ気づくことがあるが、それすら、自分の長い試行錯誤を越えてのものなのだと、覚えていなくては。