クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

対立

吐露そのままなので読みにくいです

 

やりたくないけど、目標に届くにはこれをするとたぶん良くて、それは結局自分のため(得とも言う)になるのだから、やる、できるように取り組む、ということがある。それは、新しいことだったり、今までの何かをやめることだったりする。それは誰でもやっていることではなくて、そもそも自分で左右できることだと知らない人もいる。そういう人は「自然とそうなっていて、自分ではどうにもならないのだから、それができないことで責められるのは不公平だ。むしろ、できないという不利を抱えているから配慮してほしい。楽しんで自然とできて、得しているのはずるい」と言う。それをできるようにもなれないし、もしなれるとしてそれはとても苦しくて大変だろうし、なったとしてそれは自分ではなくなってしまう、と思うかもしれない。

私は。元からできたわけではない。というかできないから困って、できるようにしようとしている。苦しいのはいやだから、できるだけいい面を見ようとしている。楽しんで取り組めるように工夫している。頑張ろうとしている。

そうやって頑張るのが嫌なのは、「自分と同じ問題を抱えている(ように見える)のに、何もしないで(ように見えて)文句だけ言っていたり、あなたはいいねすごいねと言ってくる人」に嫌な気持ちを抱いてしまうからだ。「私だって頑張っているのに」「私だって最初からできたわけじゃないのに」「あなただって頑張ればできるようになるはずなのに」と恨みがましく思ってしまう自分が嫌だ。人を呪うくらいならやらなければいいのに、頑張って、ぎすぎすしていく自分が嫌だ。「この人には取り組むための力や知識が足りないのかな」「どうしたらこの人がそうなってくれるのだろう」と考え始める自分が、相手より優位な立場と錯覚しているようで、選民意識を持ちそうで、嫌だ。

そもそもこういう雑念自体が邪魔だ。こんなことをしているより、別のことをやったほうがいい、と思って切り替えて自分のことをする。そうすると、怒ったままの人と比べて、自分が損しているような気がしてくる。いい習慣を身につけるだけ損な気がしてくる。なんで私が我慢しなきゃならないの。怒ったままの考え方が侵食してくる。どれだけ動かずに手に入れられるかを基準に考えている状態と、どれだけたくさん生み出せるか、与えられるか、また経験できるかを基準に考えている状態では、そもそも話がまるで通じない。その断絶が悲しい。

部屋を片づけない人は、片づけないことで発生する問題を、別の方法で処理している。そこのサイクルが、片づけたほうがトータルでは楽になるとか、口出ししようとする自分が嫌だ。