なぜどのように、よりも、それを使って何を生み出すか
自分がなぜそれができるようになったのかはっきりしないとその力を使いたくない、というこだわりに囚われていた。
それは、「恵まれている」という言葉への謎の罪悪感であったり、プロセスを忘れたら再現性を失ってしまうという恐れであったりした。
他人にも可能であることを証明したかった。あなたにもできるよって、いい意味で言えるようになりたかった。
ただ、何かができるという状態に到達するのには、山の上の一本杉にたどり着くのと同様に道や行き方はいくつもあって、また学ぶ必要のある要素が複数あったとして、学ぶ順番は入れ替わっていてもよいということは頻繁にある。
何をすでに持っているか(攻略に使える)は個人によっても違って、どこから手を付けたいか、どんなやり方がやりやすいかも違う。
そして大事なのは、どうやってその力を手に入れたのか、あるいはどんな仕組みで使えているのかよりも、その力を何に使うのか、その力を応用して何が生み出せるか、なのだ。
自分のやり方に再現性があるかどうか本当は確かめる必要はなくて。他人に何かを教えるときに、方向性が分からないとつい自分が教わったやり方、学んだやり方を教えようとするけれど、それは最低限、というところで、本当は教える内容も教え方自体も、テクニックと知識と経験がいるのだと思う。
再現性を必要とするのは科学やアカデミックなものだけで、人生の多くのことは一回こっきりなのだった。
(原文ママ)