再発見(20日目)
何回も書くけれど、違和感を訴える自分の感覚に反して、自分の頭で「正常」の範囲なのではないかと考えて自身を抑圧しようとする動きが止まらない。一度それは違うと頭で論破しても、何度でも湧き起こってくる。かといって頭の動きを全部止めるわけにもいかないし、まったく複雑なものは難しい。
人間とは心と体と頭のバランスが取れているとよいのだそうだ。昨日、解毒ノススメ | ある毒親育ちの解毒戦記というブログで読んだ。このブログにはもっと私の状態が悪かったときに一度出会っていて、それなりに参考になったのだけど、先日Twitterアカウントを偶然発見して、また新しい記事を読んだ。そこで少し参考になるものを見つけて、また、もう自分はずいぶん治りかかっていると思って自分を抑圧しかけていたけれど、案外そうでもないかもしれないとも思った(いい加減、こうに決まっているという考えとそうでもないぞという考えを新しい証拠を探しては往復するのをやめたい気もする)。私が先日書いたプレッシャーというのは不安と言った方が近いのではないかということも発見した(自分用メモ:不安になってしまったら | 解毒ノススメ)。それから、自分にとってうつはあくまで二次症状みたいなもので、本当に改善したい問題の根幹は感じ方やいろんな習慣やくせなど、別のものだという線があるなと思った。最初自分がうつ(のようなもの)だと受け入れたときには、頑張ったり働いたりしすぎたことと判断能力(考え方)がおかしくなったことが原因だと思い、確かに大学生になってからしばらくして随分昔と違った考え方をしていたなと気づかされ、一時は(自分なりの学習や思考の結果ではあるけれど)それが間違いだったのだろうと判断した。しかし最近、問題は大学生になるずっと前から変わらずそこにあるもののほうで、そいつが方向性をこうしたのだろうという予感がする。
「必要なときに必要なものはちゃんと現れるもの(だからそう心配することはない、うまくいく)。」というような考え方がある。最近ちらほらそれに思い当たりがあるようになって、そのブログを見つけたときにもそれじゃないかと思った。でも信じた場合にどうなってしまうのか心配して信じない自分もいる。どちらかと言えば、必要なものが向こうから現れるというより、自分で探し出したり気づかなかったものに気づいたりしていると言うほうが近いのではとも思う。
話がずれた。心と体と頭のバランス。人間が生活するためのバランスというのはいろいろ言われる。睡眠と労働と遊び。活動と休息。私はすぐ頭だけに逃げるみたいだ。それはたぶん、知識や経験に学んでもっと進歩したい、不必要に間違えたり傷ついたりしたくない、という志向からだ。今も傷つくという言葉が出たが、どうも私はずっと(その理由が客観的に不当にせよ正当にせよ)傷つくことが多かったのかもしれない。今までそれにふたをしてきたこと、本当は傷ついていたことが手を伸ばしてみればなんとなくわかる。次はそれについて書いてみるといいのかもしれない。
少し前に To Do リストを、今の自分の生活をまわしていくために必要な外的なことと、精神的に支障が出ていて優先的に取り組み解決したいこと(問題)と、今すぐやる必要はないけれど自分の生活を変えるためのことに分けるのを思いついた。これはなかなかいい感じだ。ただ、そのときは予定をたくさん書くとプレッシャーだか不安だかを感じて続けられなかったのだけど、目下、それを進めようと思っている。
以下、Twitterメモ。
他人と自分の境界線があやふや、というのは以前はまったくもってしっくりこなかったけれど、最近はかなりあてはまるような気もしている。違う!って思った人はわかりあえない他人ゾーンに入れ、近い!って思った人にはどんどん近づき境界線もあいまいになる感じ。それで違いに気づくと怒るの。
— 遠野あかり (@ten_light) 2015, 4月 22
他人の問題を自分の問題として考えてしまう。自分に責任があるように感じてしまう。自分が解決しようとしてしまう。他人の状態に影響されてぐらぐらしてしまう。親しく思う人の持っている価値観をまるごと取り込もうとしてしまう。逆に、違うと意識した相手に対しては自分の価値観に頑なにこだわる。
— 遠野あかり (@ten_light) 2015, 4月 22
わけのわからない違いの存在が明らかになったときに、それを受け入れることと、相手を見下さず尊重することと、相手を親しく思うことの両立が難しい
— 遠野あかり (@ten_light) 2015, 4月 22