クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

回復と変化を同時にしたい(60日目・夜②)

気になっていたことを書き始めたらもっと長くなりそうな感じがしたから、ブログに移ってきた。

いやなんです、私が元の私に戻っていくのは。

このあいだ、「人は戻るということは絶対になくて、変化していくものだ。それがいい変化か悪い変化か、どんなものなのかはあとになってみないと分からないが、経験はどんどん積み重ねられていくものであり、変化は絶対に逆戻りはしないものである」みたいな仮説を書いた気がするのだけど、(そのときも同じ反応だったけど)自分のことについて考えると、それは全然正しいとは思えません。ただ、元の形に戻っていくというか、変わらないままな気がします。もっと言えば、今まで特異な環境・状態下で目立っていた前の状態の異質な部分が、その前の状態に戻ることで再び見えなくなって、さらにその輪郭がぼやけて思い出せなくなるのではないかと危惧しています。

私が起こそうとしているのは、自分自身の根本的な革命です。今までは選択肢として検討どころか気づきもしなかったような隙間へぬかりなく紙を差し込んでいって、私の考えはここ、と言いたい。

もちろん元の状態に戻ったとして経験は蓄積されているので変化はゼロとは言えませんが、日本的な圧力もあるので、一度元の鋳型におさまってしまうと、また変形するのに手間がとてもかかるような気がします。これは、どうせなら、留学してこれが変わった、ということにしてしまいたい、という気持ちと似ています。

 

他の人はともかく、個人的に私の感覚はあまり信用できないものだ、という発見をしたと前の記事に書きました。だからこそ、いろいろ整理してみたり、意識的にコントロールする訓練をすることで、より効率よく自分のやりたかったことができると。ただ、今はその、よくわからない傷がたくさんついてうっかりさわるとヒリヒリする体でたくさんのごみのなかに埋もれている感覚を探しているようなもので、矛盾しているようですが今は自分の感覚をとても大事に生きています。少なくとも、気分の乗らないことはしない、やりたい理由がはっきりしないことはまだしない、レベルで物事に向き合っています。やろうかなと自発的に思えるまでは、やったほうがいいかなと頭で思っても放置しています。なんとなくやりたくない、やる理由が自分にとってはっきりしない行動で、以前の自分にとって当たり前だった行動なんか最悪です。自分のできる活動量の様子を見つつ、余裕があったらやりたいことに集中するくらいなものです。

 

何が言いたいかごく抽象的で不安定になってきたので、近況に絡めて書く。

帰ってきたばかりのときは、「ダイエット」のことなんか考える暇もなかったし、そんなものの必要性はもう認めないと思った。自分の今の体型に何も問題はないという考えを崩したくなかった。(たぶん昨日の記事にもそういったことは少し書いてある。)

このごろは、それでも、身体の調子を整えていこうという方針が再び浮かび上がってきた。そうすると、運動やら生活リズムやら食べ物やら、いろいろ「ダイエット」めいたことにも似てくるし、目的が違うとしても「ダイエット」のための知識は役に立つだろうと思った。

今の自分で外に出てもぜんぜん「ダメ」じゃないけれど、どうせなら趣味として体をコントロールしてみたいという考えも湧きつつある。方針を明確化したり、計画を立てたり、何か生きていくのに必須ではない目標を持つエネルギーが少しずつ、少しずつ復活している。

そんなわけで「ダイエット」雑誌を読みながら寝ます。