クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

健康と美しさは極めると相いれない

怒涛の合宿漬けと本番をなんとか終えて風邪をひき、寝込んだりしていたらいつの間にか身の回りのことをまたやらなくなって、精神面が急に荒れてきたので、これはいかん、と慌てるも、すっかり就寝が午前2時以降のサイクルになってきてしまっているし、鏡をのぞきこむと最近やっと少し落ち着き始めていた肌は再び荒れ模様だし、唇の色はくすんだ色に逆戻りしているし、そもそも身体中がまた急にまるまるとし出して、これはいよいよいかん、と思ったわけです。

 

私は以前はあまり肌の状態について気にすることはありませんでした。お化粧をしたり、化粧水や乳液を使うのは、言わば「女性としてスタートラインに立つため」「見下されないため、失格の烙印を押されないため」で、どちらかというとポーズでやっていました。「大学でメイクをしないのはヤバイ」「ヤバイのをヤバいとも思わないのはヤバイ」そういう言葉をそのまま受け取って、ヤバイと思うようにしていました。肌は弱い方だったので、合わないもので赤くなるということはありましたが、今考えてみれば自分の肌に限らず、自分や他人のコンディションなど細かいことについては全く注意していなくて、「何も変わらなくない? 気にしすぎだよ」と思っていました。逆に、10代のうちから「肌ヤバイ~!」とファンデーションを塗っている子たちに対する「若いうちにそれをやると肌ボロボロ」説を採用していて、特に何もしなくても大丈夫だと思っていました。それに、見た目のことや美容のことに気を取られているのはバカバカしいとすら思っていました。高校を出てからはファッションを楽しむようになり、色々とそれなりにこだわっていましたが、結局それも、「見下されないため」という面が少なからずあったと今では思います。

 

以前は、考え事を運動で散らそうという考え方は到底受け入れられませんでした。考え事は考え事であって、そのときの気分で気にならなくなっても問題は問題として残り続けると信じていたし、それをどうにかする方法を見つけるか、どうにもできないと結論付けるまで、脇へ押しやるのはいやでした。そもそも、ストレッチをすると気分がよくなるなんていう話はうさん臭くて、受け入れられませんでした。誰かの思い通りになったり予想通りになることも大嫌いだったので(何か抗えないものに支配されている感覚が強かったからでしょうか)、その、よく納得のいっていないものを試してその通りになることも嫌だったし、それで「ほら、解決したでしょう」なんて言われるのも嫌でした。

それでもしばらくして、どうにもメンタルの調子が悪いこと、そしてそれはやり方によっては改善するしもっと快適な生き方があるということを、認めざるをえなくなりました。このままでいるよりも改善したいと思う方向へ、少しずつ変わってきました。それで半信半疑でちょっと恥ずかしくなりながらも、リラクゼーション系の音楽をかけてみたり、ストレッチをしてみたり、日光を浴びたり、いろいろ試してみました。すると、今まで些細なことに無頓着だったせいや、誰かの思い通りになるのがいやだったせいで、認めなかった、あるいは、気づけなかった違いにだんだんと気づくようになりました。

部屋の床の汚れに気づくようになって、最初は「気づかなければそのまま掃除をしないで過ごせるのに」なんてブツブツ言っていましたが、結局汚れがあると、体調にも影響があります(たとえばハウスダストアレルギーや、汗のついた枕では肌荒れを起こすというような)。

なぜ、掃除をしなければいけないのか。なぜ、食べた食器を洗わなければいけないのか。なぜ、洗濯をしなければいけないのか。なぜ、運動しなければいけないのか。なぜ、お風呂に入らなければいけないのか。なぜ、歯を磨かなければいけないのか。なぜ、服を変えなければいけないのか。なぜ、外に出なければいけないのか。

本気でイライラしていました。

あ、ここで理想を述べます。これらは確かに大体「やらなければいけない」こととされていますが、「やらなければいけない」と思うと苦しいので、自然に「やろう」と思えるのがよいです。

これを解決する方法として、「やりたくないのならやめる」という方法をとりました。大体、やめるともっと困った事態になったり、あとあともっとめんどくさくなって手の付けようがなくなったり、地味に「なんかいやだな」と思うことがあったりして、「あっこれは今やればいいのでは!? すごい、天才」となったり「やっぱそこでやるのが一番いいのかなー、しょうがない」と思えたりします。はっきり実感を伴った「やる理由」があると、自然に「やろう」と思える方向に少しは向いてきました。

この方法の困るところは、やりたくないことをやめると見えない代償があって、それが思った以上に悪さをしていると困るという部分です。例えば、お菓子だけ食べていて、治りにくい病気を発病してしまうとか。ずっと寝ていたせいで想像以上に筋力・体力がなくなっていたとか。

 

とにかくそういうフェーズを過ぎて、「しなくてもそんなに変わらないのにやるの無駄じゃね」みたいな考えがふっとびました。自分でも気づかないような些細なことが物事を大きく左右する場合があるということ、継続すると結果がかなり違ってくること、そもそも注意してよく見ることで少しの違いでも大きなこととして捉えられること、などをはっきり認識しました。

たとえば使ったものを元の場所に置いたり、汚れたものはすぐきれいにしたり、するのがよいと思うようになりました。以前はそんなことをしていると時間が無くなってしまう、もったいないと思っていた節がありましたが、今はなぜか、それをやったほうがなぜか時間に余裕がある感じがします。

そういう逆説のようなことはほかにもあって、ちまちま少しずつやるより一気に片付けたほうが早いと思っていたのに最近はそうでもないとか、余計な運動は疲れるからやりたくない、エネルギーをセーブしたいと思っていたのに、継続して「余計な」運動をしているときの方が疲れが出にくいとか、考えてみると理屈は分かるんですが、不思議だなあと思います。

 

いろいろ考えが変わって、まず人からどう見えるかということや、美容や若さにはあんまりこだわる必要はないんじゃないかなあ、なんだか無駄に思えるし、それがないと価値が低いように思われる世界観はいやだなあ、と思ったのですが、しかし肌荒れしすぎて調子が悪かったり何だったりしたことから、いや、健康は必要だなあと思いました。健康は快適や幸せを作ります。長く快適でいたいなら、健康はかなり重要です。もう健康を趣味にしようと思いました。

そこでいろいろ調べて、今までの習慣を見直したり、ケアをするようにしたりしようと思ったのですが、つまずいたのは美容と健康の違いについてです。大体、美容の記事には「健康に」って書いてありますし、健康になれば美しいんじゃないか?(一石二鳥だー)と思っていましたが、よくよく考えると極端な話、美しさとは不健康、不自然であるほうが多いです。「健康美」「自然美」なんてものは一つの美しさのジャンルであって、不自然な美しさ、不健康な美しさがこの世にはたくさんあるのです。あっ、今不自然と言いましたが、それはとりあえず後に回しましょう。とにかく、健康であることが美しいかのような言い方がよくされている気がしますが、少なくとも現在の日本(おおざっぱ)で美しいことは、大抵不健康です。雑誌のモデルさんみたいな身体は実は痩せすぎだとか。かわいい服は体が冷えるとか。ヒールは足に負担をかけているとか。いつも運動してて筋肉けっこうついてる日焼けした脚より、色白で脂肪も筋肉もない細い脚のほうがカワイイとか!(ほんとかどうかはよくわからん)日焼けがいいのか美白がいいのかっていうのもなんとも言えないですよねー。今の日差しは強烈だから基本的には日焼け止めを使えばいいんでしょうけど、あまり躍起になって紫外線を避けるのもビタミンDが不足するとかそういう。そんなこんなでややこしいので、健康と美とは基本相いれないものだと思うようにしました。ただ、じゃあ健康だけで生きればいいかというと、自分の肉体に限らず芸術などの美は精神を豊かにするし、それもまた生活を快適にしてくれるものだと思うので、(少なくとも私にとっては)ある程度は必要です。なので、イメージとしては、健康<----------○----->美 みたいにバランスをとって適宜対応していく感じですね。あ、ちなみに変化するときは、やじろべえのように左右に大きくブレながら自分のちょうどいい位置を探すのがいい感じというのを発見しました。たとえばネイルケアでも、あるときはちょっと美の方に傾いて、お手入れをぜんぶやって爪磨きまでかけてマニキュアを塗ってみる、あるときはちょっと健康の方へ傾いて、爪を健康に清潔に形よく保つケアだけにしてみる、とかそういうことをやってみてます。それで自分に合っているお手入れの程度を見つけられるかなー、と。話が少しずれますが、ネイルアートってどうも今でもついスイーツ(笑)とさげすむ考えが出てしまって、そもそもただ興味があって始めて楽しんでいるはずなのに居心地悪くなったりして今の課題なんですが、それなりに技術の要るクリエイティブな行為でしかも自分の身体のメンテナンスでもあるんで、うまくはまるとけっこう心や精神のためによさそうだな~と思います。

さて、さっき保留にした「不自然」の話をします。まあ自然なものでも美しいものってたくさんありますが、それと同じくらい不自然で美しいものってあると思います。人工の、アーティフィシャルな美しさです。今ぱっと思いつくのはバレエですかね。もちろん不自然で美しくないものというのもありましょうが、自然で美しくないものも、同じくらいあるんじゃないかと私は思ってます。まあ、何が「自然」で何が「不自然」かという線引きの仕方にもよるんでしょうが。

「自然」「不自然」というのもやっかいで、どうしても「自然」がいいもので「不自然」はよくない、という印象があります。しかし考えてみると、必ずしも「自然」が今の自分(たち)にとっていいものではなく、「不自然」のほうがいい場合もあるように思います。さらに何が「自然」で何が「不自然」かというのも、もうわけがわかりません。たとえば私はエスカレーターという文明の利器があるのにわざわざ階段を上るのは不自然なように思いますが、そのほうが運動になって体にいいと聞きます。これはたぶん文明が発達して今の生活では「不自然」に体を動かすことが少ないから積極的に補うべしということなんでしょうが、生まれてこの方この生活なので、自分たちにとってはこちらの生活の方が「自然」で、うー、わけが分からない。あと、「自然」なお産だけでは助けられなかった命も医療行為で助かるとか、そういう……「自然」って必ずしもいいものじゃない、むしろ脅威だったりする、という面があると思います。そもそもこの文明社会の中で、ずっと昔、野生の生活に適応したところから基本的には進歩してない肉体を抱えて生きているということ自体、矛盾です(なんかさっきからめちゃくちゃ適当言ってる気がする)。まあ、そんなところなので、あんまり「自然かどうか」は気にしないことにしました。はい。

 

そんなわけで私は快適に生きるためにめっちゃ健康になりたいし、余裕があれば少し美しくありたいです。

当初の予定ではここから食べることについて語る予定でしたが、長くなったのでまた別の機会にします。ざーっと書いたのでいろいろ大丈夫かなとちょっと心配しますが(前半タイトルと関係ない……)、そのまま上げます。