クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

自分でもなぜそうなったのか分かっていないことを説明してわかってもらうって難しいね

私用だったもので早速しれっと更新抜けてますが、まあできる限りやっていこうと思います。タイトルはてきとうです。

 

以前は理解できないと思っていた人に自分がなっているときというのがあります。

もしくは、なんとなくすんなり理解できるようになっているときがあります。

元々私はわりと理解したがって説明を求めるタイプなので、そんなときにはついつい過去の自分に向かって、説明したくなります。仕組みやメカニズムを解明するのが好きなので、興味と説得への意欲があいまって、分析に夢中になったりします。

ただ最近、考えに考えて出た結論が「考えないほうがいい」「理屈じゃないので理屈で説明しようとしてもたどりつけない」みたいな方向へ行っていて、もうずっと無駄なくらい考え続けて生きてきた自分にとってずいぶん衝撃的展開を迎えています。

私は言葉で仕組みを解き明かしたり説明をしたりしたものを公開することで、誰かの助けになったらいいなあ、自分の理解も深まるし、なんて考えていましたが、説明しようと俯瞰視点で分析をしようとすると、主観的な視点での経験がおろそかになるというか、どうしてもそれでうまくいかなくなるので、どうやら、この分析を本格的にやるのは(少なくとも今は)無理なようです。

考えてみると分析をやめるのが、その新たな仕組みを深く知るのには一番いいように思えるんですが、そこは分析好きなもので、なんとか支障が出ない程度に分析して、少しずつ言葉にして共有していけたらなあなんて思いました。

ただ、その言葉にするというのがまた大変に難しい。象を知らない人に象とは何かを説明するようなもので、あるいは雨を知らない人に雨を説明するようなもので、知っている人が聞けばすぐわかるけれど、知らない人が聞いてもどうもピンとこない……というような説明になりがちです。また気を抜くと説明がすぐスピリチュアルかオカルトじみてきて、説得力を失います。他の人が書いているものを読んでも、なかなか、言いたいことは分かるのだけれどイマイチ語弊が大きいというか、まだ本質はとらえられていないような結果になっているものばかりのような気がします。

分析に手間がかかっては立ち行かなくなり、説明しようと言葉を尽くしてもいつまでも完成しない。それでもその作業をやめたくないのなら、いっそ不完全なままでもどんどん出していってみようか、と思ったのと、このブログ運営スタイルが、たまたまマッチしたようです。

正直自分でも何を書いてるんだかわかりませんが、こっちのブログは何を書いてるんだか分からないままでちょうどいいのかもしれません。きっと言葉を尽くさなくても、受信できる人は何かを受信していくのかもしれないし。

 

以上、今日の更新でした