クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

毎日更新すること

なんだかいつにもまして頭が動かなくて、毎日更新するだけという目標ですら改めたほうがいいんじゃないかと思ったりもするけれど、それではその場の思いつきや自分でも何を書いているのかわからないような内容を編み出して公開するという機会がどうしても少なくなるので、内容についての判断を加えずに「毎日」更新することにしている。

このごろまた、PVアップの戦略としての「内容の質が悪い記事の大量生産や頻繁な更新」についての記事をいくつか見かけた。

言われてみると、そういう基準で見るとここのようなブログは「内容が十分に練られていないのに記事として公開している」とも言えて、それがノイズだというならまあ、そのひとにとってはそうなんだろうし、さらに私自身、以前は今の私のようにブログを書いている人がまったく理解できずにいらだっていたこともあり、現状私は(昨日書いた記事でも書いたように)うまく説明する言葉を持たないからそのへんの齟齬はどうしようもないなあ、なんて思う。

私が「毎日更新する」スタンスをとっているわけというのは、そもそもはクオリティに気をとられすぎたりハードルを高く設定しすぎていつまでも更新できないという状態を避け、とにかく文章を書くことで書く技術や内容の質も高めていけるかなあという狙いがあった。それから、今考えていることを(一応他人が読む前提で)とにかく言語化する、そしてそれで得られる何かを得る、という狙いもあった。また、去年の秋ごろからは基本的に公開しないでいろんなことを書くということを初めて本格的にやっていて、その一部を公開したいけれど、誰でも読んだら分かるような体裁にする余裕がないので、もうそれなりの今思いつく言葉だけでひとまず出してみる、という意図も今はある。

少し話が飛ぶけれど、すべてのものは見方によって価値を持ちうるし、反対に価値をまったく持たない見方というのもあるわけだなあと最近は考える。すべてのものには長所と短所、メリットとデメリットのようなものが対で存在していて、それのどこに焦点を当てるか、どこを拡大してどこを縮小して見るかどうかでそのものの見え方も価値も変わってくるのだと思います。その物の見方というのは細かく分ければ人の数ほどもあって、でも一人が複数の見方を獲得することももちろん可能で、その見方の持ち札が多いほど道具が多いのと一緒で便利なんじゃないかなと思っています。(というのもまたひとつの見方なんですがね…)

 

今日はここまでにします。