クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

とっちらかる

気づいたら部屋も散らかり放題で、ちょっと前に片付いてないと気持ち悪いくらいになりかけたわたしはどこへいっちゃったの、って思う。

やりたくない!って思っているときに、その気持ちに逆らって「やること」に手を付けるということができない。やりたくない、がただの気の迷いや感情の抵抗のようにどうしても思えない。だってやりたくない!ってなってしまって、それがいちばん強く働いてしまう。そう思っているときにもやるには、やらないとと思って計画を立てているときに、この時間にそれをやる、と余裕をもたせた時間配分で決めること。そうやって予約して、できればそのときにやらざるとえない理由をつけておいたり、やらない理由がないことを明らかにしておくと、「やりたくない」がただのだだこねみたいなものだとわかるし、さらにそういう困った癖を克服するというテーマを与えておくと、「やること」に取り組みだせるイメージ。

 

そもそも、やりたくない、って感じるときにどうしてそれを一時の気の迷いのようにとらえることが苦手か、ということを考えると、どうも、「これは本当の気持ちだ!!!! いい加減なものじゃない!!!!」って気持ちが強い。「私はやらないから、やりたくないと思っている」というのと似ている。

思えばよく母は私がぐずるときに「気のせいだよ、そういう気がするだけだよ」とよく言っていたけれど。

部屋と同じように、思考もどこかとっちらかったままで、今書いたこと以外にもいろいろひっかかっていることがあって、さらに悪いことには、ひっかかっていることが明文化されておらず研究しづらかったり、もっといえば何がひっかかっているのかすらわからなかったりする。

まあ、何がひっかかっているかわからない、というのはもっと昔からしばしばあった。

その点だけみれば、ずっと昔から、何か自分の内部の一部に対して無意識に抑圧しているものはあるのだろうと思う。

 

しばらく完全に元気をうしなって現実に背を向けている間にどんどん現実がせまってきていて、唐突に目の前に現れた。現実とうまくやっていこう、とは思う。現実に背を向けていたかったのは、たしかに気のせいなのだけれど、そのときは気のせいではなかった。