クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

春に

4月1日、なんとなく新しい気分になる。

「変わったのは暦だけ」だから、物理的には昨日と何も変わらないのにと、やたら心機一転する人たちを少し冷ややかな目で見ていたけれど、今は心にこそ区切りや改まる機会というのがあったほうがいいんじゃないかと思うようになった。

なんとなく、いろんなことについて改めてがんばりたいなって思うけれど、それを書こうとしてもなんだかよくある曖昧な言葉になってしまって、心が冷ややかな状態の人と傷つけあってしまいそうな気がして、憚られる。

前向きなことばかり書いてあると疲れちゃうって人もいると思う。もちろん、そんなことは読まなければいい、読むタイミングを自分でコントロールすればいい、という話でもある。ただ、私は今までそっち側だったがために、どうしたらそういう状態の人とも断絶せずに知恵を伝えあえるのかしらということにとても興味がある。私の新しい知恵にはまだまだ未完成な部分があって、そういうところを突かれたら困るなあとも思っている。でも困るというのは、私がその弱味ともとれる点を受け入れられていないというだけかもしれない。

何を書いているのか分からないくらいの文章をここではどんどん書いていきたい。抽象的なこと、実生活に関連した具体的なこと、抱負、夢、愚痴、理想論、泣き言、なんでもごちゃまぜにして、正しいのかどうかもわからないことを書いていきたい。どうしても、人との会話で出すのは憚られるような、半分わけの分からない、自分の考えていることの話がしたい。そういうことを話せる相手がいるのもいいけれど、ブログはそういう話をするのにぴったりな場所だと思う。

こういうことを書いて、誰が読むんだろうな、と思う日もあるけれど、誰が読むかどうかはその人が決めればいいし、別に読まれなくても誰の迷惑になるわけでもないし、私も何を伝えたいのか分からないけれど、どうせ伝えたいことがはっきりあっても、書き手の予想もしないものを読者はもらっていくものだから、そんなことは大して気にしなくてもいいのかもしれない。読者がいなくても、少なくとも未来の自分が読むだろう。

考えすぎるところというのはずっと私の特徴であって、一時は意図的に制限していたので「そんなの考えるだけムダじゃない?」なんて心の中で言い放っていたこともあるけれど、自分を野放しにしていると結局ずっとぐるぐると考え出してしまう。今は、無駄とまで言わないけれど、何について考えるかコントロールしながら考える時間を増やしたら、もっと自分の力として有力に働くのかもしれないと思う。

エントリー数は、やや少なめかと心配になっても数を増やすよりもひとつひとつを確実にしっかり、という方向でいく。うまくいかなかったら二次募集や秋採用・冬採用を目指そう。それでもだめならもう仕方ないし、私ならまだそれでもどうしても困ったときの手段はいくつか残っているはずだから。できることをやっていてダメならしかたないし、逆に言えば、今の自分ができることをできるだけ埋めてやっていれば、どこかはいけるようにも思う。私が働けるかどうか採りたい人間かどうか判断するのは、どちらかというと企業側だしな。

それはそうと最近就職関係のメールが多すぎてキツイ(笑) 情報収集が弱いから一応メール配信希望にしていて、ほとんどはまともに読んでないけど、メール来るだけで気が散るからやだな。