クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

マジメで他人に優しい(追記あり)

文がとっちらかった個人的な話です。

 

最近気づいたんですけど、私ってどうやらマジメなようです。

自分ではぜんぜんマジメとは思ってなかった。マジメどころかいつでもサボるし、計画立てて継続的な努力とかあんまりできた覚えないし、夏休みの宿題は最後の日にやってたし。

でもそれってもしかして、要求水準が高すぎて、自分を低く評価しているだけなのかも……いやちっともそんなふうには思えないけど。要求水準が高すぎて、達成できない自分が許せなくて、始めからやらない、だらける、逃げる、っていう姿勢が板についてしまっただけかもしれない。(そういうのって完璧主義が悪く作用してるパターンなんだろうな。)

マジメだったらもっと成功してるんじゃないかな、人生うまくいってるんじゃないかな、とも思う。でもたぶん、変にマジメなせいでプレッシャーやストレスやそれらをそらすことができなくて、良くないほうへ流されたり、負けたりしていたのかもしれない。

マジメってなんだろね。

 

さらにどうやら、私は「他人のことを考える優しい子」らしいです。

……ずいぶん自己中心的に生きてきたような気がするけどね。ただ、他人の役に立っていないと、自分の存在価値がないような気はよくしていた。

アドラーの「他者貢献」というフレーズだけ聞いて、私が怖いなと思うのは、他者に貢献していない時の自分を責めてしまいそうだということ。それから、他者の役に立つために自分を犠牲にしてしまいそうだということ。他者の反応に一喜一憂してしまいそうなこと。これだけしてあげたから、とお返しを期待してしまいそうなこと。他人を自分の思い通りに動かそうとしてしまいそうなこと。

こういう良くないパターンのときは、結局相手のためと見せかけて自分の気持ちを満たすためにやってるような気がする。それで、あなたのためにと言いながら相手の気持ちを無視する結果になったりする。

でも屁理屈を言うと、もし本当に相手のためになるように考えて利他的行動をとっていたとしても、それが「誰かの役に立ちたい」という「欲」を満たすためなら、結局利他とも利己ともとれるんじゃないかしら。利他的でありたいという利己心、利己心からくる利他的行動。

今気づいたけど、だから私は「他人のためになりたい」って言葉を聞いても、「他人優先」って感じがしないんだなあ。それは「私が」の話だから。

私は他者を助けるためにはまず自分が自分を十分に助けていることが大切だと思う。他人のお世話をすることに夢中になって自分のことがおろそかになって、知らず知らずのうちに呪いを生んだりする状況が怖い。

 

 

こうやって物事をいちいち取り出して考えるのが昔から好きなのだけれど、最近少し行き詰まっていて、困る。考え事にばかり時間を取られている。だから少し制限する。(Twitterはリストを縮小した。)5月はどうやら今までのことを少し切り捨てて、新しいことに時間を割きたくなる時期みたいだね。

 

 

※追記

別にね、利己を求めることが悪いって話ではないんだ。利己心から親切をして相手の役に立ったなら、それはそれでwin-winみたいなものだし。そもそも思うに、自分がより幸せになるためには、周りの幸せ度も上げることが近道になるんじゃないかしら。誰かの幸せは別の誰かの不幸せって言葉が耳に染みついていたせいでつい、幸せって定量があってそれを奪い合うような気がしていたけど、誰かが幸せになったら自分も幸せってことだって全然不可能ではないし、そういう関係性だって作れると思うんだよ