クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

期待と信頼と妄信

「20代にしておきたい17のこと<恋愛編>」という本を読んだら、期待と信頼と妄信についての下りが心に残りました。

たとえば、相手が他の人とデートしたのがわかったとき。 

「私だけを見ていてくれると思っていたのに……」というのは、「期待」であって、「信頼」ではありません。

(中略)

「彼は無駄遣いするような人じゃない」というのも、あなたが彼を信頼しているというより、ただ単に、彼に無駄遣いしないでほしいと思っているだけともいえます。

本当に彼を信頼していたら、彼が無駄遣いすることも気にならなくなるはずです。他の人と会っていたと聞いても、不安になることもありません。

そうはいっても、もちろん、心配になることはあるでしょう。でも、それでも、彼を信用できるかどうかです。

- 「20代にしておきたい17のこと<恋愛編>」本田健(2011)

 筆者はこのあとに、相手をよく観察して信頼できるかどうかを見極めてから、信頼することが大切で、(たとえば十分な反例が出ているにもかかわらず)やみくもに信じるのは「妄信」だとしています。

(うーん、ちょっとこの引用と説明だけじゃあんまり伝わらないような気がしてきましたが。続けます。)

この「期待」と「信頼」と「妄信」の話は恋愛関係だけじゃなくて人間関係全般に言えることだと思うのですが、私は特に自分自身との関係で心当たりがありました。

私は自分が今日○時間勉強するとか、明日までに○○するとか、これをやめるとか、自分にたくさん「期待」をしてきたけれど、それをことごとく裏切ってきました。そうすると、そのうち自分自身が「今日は2時間勉強するべきだけど、きっとそう言っても聞かないだろう。ずっとスマホをいじって寝転んでいるだけだろう。それなら4時間勉強するつもりになれば、半分くらいはやるんじゃないか」みたいな変な作戦を立て始めて、そして実行する側の自分は「2時間やればいいんでしょ? 最初の2時間は遊んでいよう」となって、結局2時間もやらないことになります。そしてまたどんどん自分の信用、信頼を失っていきました。

この経験から、私は一時期自分を信用できなくなり、期待すらできなくなりました。期待すれば、期待されること自体がつらく、また自分を裏切ることもつらく、自分に裏切られることもつらかったからだと思います。

それから時間を経て、私は自分に対して厳しすぎた態度をとっていたことを見直したり、自分のできることに注目したりして少しずつ自分に対するイメージをよい方向に変えてきたつもりでした。つもりというか、実際かなり変わった。

でも最近でも、自分がやろうとした何かに失敗するたびに「やっぱりダメなんじゃないか」「うまくいかない原因を取り除くまでうまくできないんじゃないか」と動揺したり失望したりしてばかりで。

本を読んで、これは、まだ「期待」しているだけで「信頼」はしていないんだなって思いました。

それができると「信頼」していたら、うまくいかなくても、動じないで続けてチャレンジし続けられるはずです。

今まで私は「自信」を「自分にはこれをする力がすでに備わっている」という形でしか持ちませんでした。でも、自分に対する「自信」や「信頼」って「それをすることができる。必要なものを見つけてそれを身につけたり、人を頼ったり、なんとかして自分がそれをどうにかできる。もしくはどうにかできなくても、いい形に収めることができる」っていうことなのかもしれません。

 

私は他人の可能性は信じるのに、自分の可能性はいまいち信じきれないところがあります。他人を応援することはできるのに、自分を応援することが苦手です。でも、人間がみんな等しいなら、私は他人に優しくするのと同じく自分にも優しくすることが道理だと思います。私はそんな理屈をつけて、自分への接し方を時々振り返っています。

自分からの信頼はどうやったら得られるのでしょう。どうやったら自分を信頼するようになるのでしょう。いまのところ、信頼しようとかされようとか考えないほうがうまくいくような予感がしています。