クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

20160711

わたしは課題をやる自信がなくて、もしこのまま適当に書いて提出してOKが出たら、自分が詐欺師のような気がするのです。そして、そんなざるな評価システムに失望すらしてしまいそうです。これはとても傲慢な考えです。先生が判断するのですから、私が出したものがOKかNGかどうかは先生のほうがよくわかると思います。

このところ、自分について批評を加えることがとても怖いです。

私はまじめなところがあるけれど、同時にサボり癖も逃避癖もあります。でもそれを批判するのが怖いのです。サボっていてはよくないと思いたくもあり、サボることを否定しないでと叫びたくもあります。

頭が痛い。

私が成長することは誰かを否定することのように思えて仕方がありません。

 酔狂にも私は、「変わりたくない人・すべて理詰めで保障されていないと納得しない人」がどうやったら変われるのかを再び検証しようとしていたようです。

でもここに書いたら思い出しました。「変わりたくない」と思っている人を変えることは誰にも、本人にも、できないです。人はやりたくないことはできないです。

私はこの数年で得た自分の感覚と答えをもっと信用し直すことが必要かもしれません。

私はまだまだ足りないところがいっぱいあるけれど、少しずつやれば必ず力はつきます。

今足りていないのは、必ずしも私のせいではありません。でも、必要な部分を足りないままにしておくかどうかは、自分次第です。私のせいでなく不利益が生じているとしても、残念ながら自分のことは自分でしかどうにかしてあげられません。そういう外れくじをひいたみたいなものです。他の人は助けることと見守ることくらいしかできないのです。

こういう文章が今、しっくりくる人とそうでない人がいると思います。これは薬みたいなもので、誰にでもいつでも合うものではありませんから、賛同できなければ忘れるのがいいと思います。

私はどんどん進歩していく。他の人が60点で合格をもらえるときでも、80点を取ろうとする。

「進歩したい」という気持ちは思ったより貴重なものかもしれません。「真面目さ」も、から回りをすると時に自分を傷つけることもありますが、使い方次第で大きく化けるよいものです。それから、「知りたい・学びたい」という欲はかなりありがたいものだと思います。こう思うと、私はけっこう活かせる持ち札もある気がしてきます。(そう思うとまた、それを活用しなければと躍起になってしまうのですが。)

過去に取り合っている場合では、とっくになかったですね。