クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

半永久的にお休みします

ずっと頭の中と色眼鏡が色々むちゃくちゃになっていて、もうこれは「悪い夢を見ていた」ってことにしよう、全部忘れてしまおうって思った。

過去を自分で語り直すと、過去を再定義することができて、今に集中できるっていうのを聞いたけど、私の過去はとても強情で、解釈を拒むという幼稚な癖があって、もうそのままさよならをしたほうがいいと思った。そもそも過去を分析しなくても、未来の予想をして準備したり、今を生きたりすることはできるから、もう過去にこだわりすぎて苦しいままでいるのはそろそろやめる。

それから、ちゃんと現実を生きてみるために、しばらく「インターネットライフ」はやめようかなと思う。SNS断ち、ネット断ち。調べものをするくらいかな。まったく違う自分になって、これもまた過去のことになったら、いつかまた再開したり、違う場所で始めるかもしれない。

 

(相変わらず何を言っているんだか要領をえない私ですが) 

今まで読んでくださって、関わってくださって、ありがとうございました。

皆様どうぞお幸せに、楽しいインターネットライフを。 

20161222

自分が「やりたい!」と思ってすることがそのまま自分に有益なことだと、ずいぶん活力に溢れた毎日になるように思う。そういう状態のとき、ついやってしまういわゆる時間の無駄遣いみたいなことはまるで起こらなくて、逆に興味が出ないくらいなのだ。24時間全部でやりたいことをやっていて、他のことが入る余地がない。さらにそれが当たり前になっていて、その上で別の何かに関心がある。

まだ今日はそこまでの域ではないけれど。

どうやらずいぶん遠くまで来たようだ。

20161221

冬至だそうです。

私が見ている星座占いでは、新しい自分が生まれる誕生日みたいな日だとありました。

まさに今日はそんな感じです。

「変わりました!」と宣言をするとつい後戻りしがちな傾向があって、あまり普段は宣言をしないようにしていますが、今日ははっきり言いたいです。

そのくらい変わったし、もういい意味で揺るぎなく新たなペースを作りつつあります。

私が一番、私のことを応援して、一番楽しく、面白くやっていきたいです。

苦しい

もうね、助けてほしい。いや自分だけでやる気満々なんだけど、それこそが苦しい理由だと思う。自分だけでなくて周りの力も使って、なおかつ自分のペースを保っていく必要があってむずかしい。

周りの力を借りるときにも、自分に100合わせてもらうんじゃなくて、相手の勢いをそのまま利用して自分の勢いにする、みたいなのが要る気がする。

そんなことを考えているよりも実際の作業にとにかく取り組め、手を動かせ、とも思うけれども、当たり前な話、ひたすら「ハイ今から思いつくことがんばって」を自分にやっていると一貫性も弱く、何が何だか分からないことになってしまって、余計疲弊している。目の前のことよりも、少し先のことのほうが、冷静になって計画しやすいし必要なものをそろえやすい。

8月くらいから、去年からの流れを再度体験しているみたいなことになっていて、苦しい。何かしら理由があっていつの間にかやらなくなったことを、「なんでやらなくなったんだろう」って蓋を開けてしまった感じ。どうもそういうことに興味が湧いてなあ。でも今は考えるのは十分やったからこそ行動を大事にしていこうなって思っているよ。ただ、相変わらず抽象的なことを言っているよ。

自分について、いろいろ幼稚な気がするなあとは思うけれど、そういうジャッジをやめて全部いったん受け入れて諦めて、そこからやり直すのが今まさに必要という気がする。もうこんなかっこわるいことはやめて、先に進みたいよとも思うけど、どうも今見えている道は張りぼてで、いろんなことをあきらめないと本当の道が見えないところにいる、とおもう。(あと言葉の文字通りの意味にこだわっていると抜けられない。感覚で本質を掴むことが必要になるから、言葉の揚げ足をとっていると逆戻りしてしまう。経験上。)

 

例えば、目の前の作業内容に夢中になっているときでも、作業内容に夢中になってやっている自分の体の状態(あるいはリアルでの客観的見え方)にも意識をやったり、すると、「今あることについて考えている自分」が「PCの前にずっと座っている自分」でもあるわけで、そうとらえたときにあー身体まで意識いってないなとか、このあとの作業量に気が配れてないなとかそういう気づきがあります。

すべての行動が目的を持っている状態、あるいはすべての行動が「やりたいこと」である状態は、ずいぶん気持ちがいい。そうでない人の気持ちがわからなくなるのだけが好きになれないけれど。「ここしかやる時間がない」っていうのは、逆に前もって発見すること自体が楽しく、分かっていれば大体策の練りようはあるわけで、という机上の空論ですが、今はそんなこともできていませんが。

全ての行動について、「これは本当のやりたいことなのか、他のもっと大切なやりたいことを阻害していないか」という問いを投げかけるのは苦しいようで、実はその後の自分に利するために味をしめると楽しい作業になります。あ、何書いてるか分からなくなってきた。

自分の実情を正直に書いて、それはもうしょうがないしその癖は直らないかもしれないけどそれにしてもこの状況はまずいしどうにかしようがあるだろう、って思えると、今まで簡単なはずなのにやりもしなかった方法に気が付いて実行でき、そうすると本当に手詰まりと思われた状況に少し光が差すので、そこから「お願いまだ希望があるのなら助かりたい!!!!もうこんなのはいやだ!!!! 希望の光!!!! だめじゃない!!!!」か、「これは面白くなってきた!!!! やればやっただけ効果があるならやらないほうがどうかしてたな!!!!」のどちらかに移行していくわけです。あ、ほんとに何書いてるのか覚えてられないな。

これは頭がいっぱいっぽいから瞑想するか、全部いったん書き出すかどっちかだな…………

 

おわり

苦しい

 

※こういうものについては確実に論破するのが「正しい」突破の仕方だと信じていたのですが、目をそらして逃げたり、ある種の幻覚だと見抜いてまともにとりあわないのがどうも一般的な正攻法っぽくて、正直「まじか……(なら今までの自分とは……というかそんなこと受け入れたくないが受け入れないと余計自分が困るだけだし……)」みたいになっている。あと、「正攻法でやってできるのはあたり前でかっこ悪い(←!?)」「強い奴がぶん回したら危ないからハンデつけないとな」で自分を苦しめているふしがあってやばい

 

※結局苦しんでいるときって、周りの人間関係との接続がうまくいってなくて空回りしていたり、相手の優しさから出た手を振り払って「痛い、何するんだ!!」って言っている(自分のことで精一杯になっているがために、痛かったことが事実なのはともかく言い方に工夫することもできず、余計ドツボにハマっていく……)ような、変な孤立感、自縄自縛感がありませんか? 同じタイプの人としか分かり合える気がしないとか、会話が苦痛とかも、そういうヒリヒリ感がある

幸運を活かす

自分が「恵まれている」ことがずっと申し訳なく苦痛だったが、その「恵まれている」部分を私が手放したとして特に誰もこれ以上幸せにならないので、(そしてそもそもそんな蛮勇はないので)「恵み」をそこそこ享受しながら普通であろうとするよりも、「恵み」を活かしてできるだけ自分の能力を伸ばしたり経験を積んだりして、自分を磨くほうがずっとましだと思った。強くなったら、自分だけじゃなくて誰かを助けることもできるよね。

たまたま「与えられている」「恵まれている」ことに罪悪感を抱いたり肩身が狭く感じたりするという人は他にもいるのではないかと思うのだけれど、それはそもそも自分で選べることではたぶんなくて。自分の持っている権利を手放したところで誰かがそれを代わりに使えるわけでもなく機会が消失するだけ、であれば、せめてそれを有効活用して、まず自分を幸せにして、そして周りの人が幸せになる助けができたらいい。それに、誰かがあなた宛てにくれたものを投げ捨てて腐らせることは(もちろん当人の自由だけれども)あまりよいことではなさそうだ。

同じところに一緒にとどまるよりも、ずっと先の世界を見て景色を伝えたり、誰かが伸ばした手を掴んだり、そういうやり方のほうが少なくとも私には合っているのかなと思う。突き抜けていく。理解できないような芸当をこなしていく。どうなっているのか、外から見るとわけのわからないような人になっていく。(そのくらいの意気込みで、やっと自分にかけたストッパーが外れて、人並みにふるまえるような気もする。)

 

 

※なんてことを書くのはいまだに自分の中で、お前一人だけのうのうと利益を享受するなと責める声が強いからです

なぜどのように、よりも、それを使って何を生み出すか

 自分がなぜそれができるようになったのかはっきりしないとその力を使いたくない、というこだわりに囚われていた。

それは、「恵まれている」という言葉への謎の罪悪感であったり、プロセスを忘れたら再現性を失ってしまうという恐れであったりした。

他人にも可能であることを証明したかった。あなたにもできるよって、いい意味で言えるようになりたかった。

 

ただ、何かができるという状態に到達するのには、山の上の一本杉にたどり着くのと同様に道や行き方はいくつもあって、また学ぶ必要のある要素が複数あったとして、学ぶ順番は入れ替わっていてもよいということは頻繁にある。

何をすでに持っているか(攻略に使える)は個人によっても違って、どこから手を付けたいか、どんなやり方がやりやすいかも違う。

そして大事なのは、どうやってその力を手に入れたのか、あるいはどんな仕組みで使えているのかよりも、その力を何に使うのか、その力を応用して何が生み出せるか、なのだ。

 

自分のやり方に再現性があるかどうか本当は確かめる必要はなくて。他人に何かを教えるときに、方向性が分からないとつい自分が教わったやり方、学んだやり方を教えようとするけれど、それは最低限、というところで、本当は教える内容も教え方自体も、テクニックと知識と経験がいるのだと思う。

再現性を必要とするのは科学やアカデミックなものだけで、人生の多くのことは一回こっきりなのだった。

 

(原文ママ)

恥ずかしい

ブログに24歳と書いてみたら、途端に自分が吐露してきた内容がとても幼稚に思えて、恥ずかしくなってきた。

恥ずかしいけれども、書いてきたのは本当のことで、過去についてはどうすることもできなかった。また最近は「恥ずかしいなんて思わずに堂々としていればいい」なんて思ってもみた(そしてそれは別の文脈では有効に働きうるのだろう)が、私の場合それでは自分をスポイルするばかりで、うまく働かなかった。

今の自分の状態、地点を認識しつつ、なおかつ、このままでいいとは思わないこと、もっとこうしたらいい、ああなったらいいと思うこと。そして、その思いをすぐ計画や実行に移すこと。それが大事なのだろう。それを、何回も失念して、何回も確認している。そこから学ぶ。

残念ながら、生まれてきた世界に適応し、そこで主体的に生きて成長していくことが一番生きやすくなる方法なのだろうとは今のところの仮説である。

わーこんなの書いてまだまだ恥ずかしいわー。せめて伸び率で何とか挽回したい。