クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

壁にぶつかったら自分が変わればいい?

参照:

「レジリエンシー(凹まない力)」について - この夜が明けるまであと百万の祈り (http://tyoshiki.hatenadiary.com/entry/2016/05/06/233517

Twitterより(https://twitter.com/YGrocker/status/728815155924996096

「レジリエンシー」とか「死ななきゃ勝ち組」とか、自分のものの見方を変えて対処する方法って、自分から選択すればよい道具として役に立ってくれるのに、どうして横から取られて誰かに圧力をかけるための道具になってしまうんでしょう。

そういう嫌な文脈で押し付けられたことしかないと、自らそれを選択して上手に使っている人についても、頭がおかしい、わかりあえないと思ってしまいがちだし、なんなら押し付けてくる人たちと何も変わらないように見えてしまう。

私は(上記のどちらとも違うけれど)新しい物の見方を取り入れたり、自分を変えたりして、それがとてもうまくいっていると感じる。うまくいっていると、人に教えたくなる。

困っていたときの自分も「いい方法があるなら、私を論破できるなら、ぜひお願いしたいものだ!」と言っていた。

でもだめなんだ。まだ全然論破できないんだ。この方法がいいということを、それを知らない過去の自分に理解できるように説明できない。同様に、他のこれはいいと思っていることについても、分からない人に説明できない。それがとても悔しい。

人に教えるためには、たぶんまずその人の眼鏡の色をいくつか抜くことが必要で、でもそれってどうやっていいか分からないし。結局本人が気づいて自分でどうにかしようと思わないと、外から変えることは無理だなあ、とは思って静かに見守ってみたりするのだけど、自分の意見としても十分に言えなくて歯がゆい。