クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

手首すら切れない私が、苦しんでいる証拠はどこにもない(12日目)

※自傷の話題含みますので閲覧注意してください

 

「気のせいだ、自意識過剰だ、変わっている(特別な)ふりをしたいんだろう」

私はどことなく何かがまわりと合わないような、居心地が悪いような気がしていたけれど、それを言うたびに実在の他人や私の中の他人がそう言った。

それを言う人たちの意図は今思えば、フォローや慰めであったり、諌めやもしくは攻撃であったりしたのだろう。

なんにせよ、私の場合として、そういった言葉に本当に救われることはなかった。

あなたは変わっているねと言われ、変わっているのだと自認すると、人間は所詮同じような生き物だから自分が特別であるかのようなふりはしないほうがいいと「忠告」される。

なぜか薄皮一枚分、噛み合わないように感じるのに、それを言うとそんなことはないと否定される。

私の違和感は気のせいという言葉でかき消されるぐらい自信のないもので、不調もはっきりは表れない。苦痛も客観的に測ることはできない。誰もその存在を認めない。

あなたは「普通の人」の範囲だよと言いくるめられ、違和感など気のせいだとみんなそれぞれ抱えていると言われ、でもどうしても何かにひっかかる。

そんななかでは、いっそこれみよがしにはっきり病めたらよかったと考える。この恐ろしく健康で頑丈で正常な肉体と心はちょっとやそっとのことでは平気な顔のままで、なかなかへばる気配を見せない。

ある人は自殺は才能で、才能のある人しか死ねないと言ったが、私にとっては自傷すら才能だ。才能のある人が、何の情報もなく本能で、自らを切りつける壁を越えるのだ。

健全で不謹慎な私は、漫画に「気分が楽になるよ」と書いてあったのを読んで、試そうと思った。でもついにカッターを使うことはできなかった。だって痛そうじゃん。

私は結局コンパスの針で腕に文字を刻むといういかにもファッションじみた行為しかできなかったし、刻んだ文字だって別の漫画から取った言葉だった。そこにあることを半分忘れて腕をまくり、親しい友達に気づかれて、そういうのってイタいね、かまってちゃんじゃん、と笑われる。

はいそうです、その通り、本物のリストカッターは気づかれるのを嫌がるんだもんね。

私はそのとき本当に忘れていたのか半分見せつけたくてやっていたのか、自分にとって自然なものだとふるまいたかったのか、もう忘れてしまったけれど、自分が本物でないことは確かだった。

しばらくそれは続けて癖になりかけたけれど、別の友達は気持ち悪がってファッションだろうお前と言うし、調子に乗って手首にもしたら、カバーするのを完全に忘れていて親に見つけられて、すぐさま学校に電話されて先生が飛んできた。

何かつらいことがあるの、と聞かれて、心根が健全でバカ素直だった私は先生に最近の友人関係の悩みをそのまま話した。先生は「まああんまり気にするものでもない、親にもらった体は傷付けちゃいけない」みたいなことを言って、もう大丈夫だね、と確認して帰った。先生の返しはどうも噛み合わないな、とは思った。

親が泣いたので、やめた。その程度の自分である。

傷は後になって、この言葉が年寄りになっても残っていたらちょっと恥ずかしいのではと気づいたけれど、数年もしたら目立たなくなった。

ごくたまにTwitterで自傷の話を見かけると、コンプレックスを少し感じる。

私みたいな健康な生徒でも試してみたくなるのだから、伝染性には気をつけた方がよい、という話はできるけれど、私は所詮ファッションで漫画の世界への憧れとともにコンパスで大したことのない傷を作っただけだ。

それと同じで、何かの病気や不調という概念は、私からいつも縁遠い。私がどうしようもなく精神的に苦痛だと感じても身体はせいぜい物を吐き出す程度でぴんぴんしているし、家はそれなりに豊かだし、親は優しいし、どうしようもない。

私には病む原因が足りなさすぎる。

それでもなお、誰も認めない布一枚の違和を爪の先に感じながら、毎日問題なく暮らしている。

 

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というのが、この前までの私であり、今の私の一部です。

自分には何も問題がないはずなのに謎の違和感があり、しかし周りはあなたは普通の範疇で病気や問題なんかない、と言うので、そうなのかしら、いやそうですよね、どこを見ても健全の範疇ですよね、あはは、ビョーキぶったら本当に悩んでいる人に迷惑ですよね、とふたをする。それでもなぜか違和感は消えないから、どこか人間でないものがまともな人間のような顔をして生活をしているような気分になってくる。

今から考えるとこれは、自分の認識のせいもあったと思う。

世の中には、大勢の「普通の人」たちがいて、それから比較的少数の「変わった人」たちがいる。「変わった人」たちのなかには成功をして普通の人たちに「特別な人」として認められている人もいるけれど、自分も含めてそうでない人たちは「普通の人」に擬態をして最低限の生きやすさを確保しつつ、ごまかしごまかし生きている。「特別」でもなく、「普通」でもなく。私は普段から選民意識があったぶん、実は自分は普通であり何者でもないと分かるのがこわかったため、私の中の私はそういう部分を分析して、実は自分はただの普通の人だろうと判断した。何しろ私があげる証拠は薄弱すぎて、気の持ちようで変わってしまうようなものなのだ。

そんな風に考え、多くの他人の中で自分は無価値であり、関わったところで話を続けたい人も関係を続けたい人もほとんどいないという理解でいた。

 

うつのようなものを経てか、カルチャーショックもあってか、今は大分考え方が変化した。

そもそも普通か特別かという二者択一に絡め取られなくなり、誰しも普遍的な要素とその個人にしかない要素を持ち合わせているものだと考えるようになった。他人の個性や得手不得手や習熟度はRPGでいうステータス(私はそういうゲームをほとんどやったことがないので感覚で理解していないが、)でそれぞれの項目ごとにレベルが違うようなもので、項目によっては時間も歳もあまり関係ないと思うようになった。(このへんの価値観がどう変わったかという話はさわりだけするとずいぶん手あかのついた表現になってしまって辟易するので次の機会にまわすことにする)

今では病気や障害を持っている人をそのようにうらやましがるのは違うのではないかと思っているし、もちろんそれが重い分、ごく軽かった自分には分からない苦労や悩みもあるわけで、おいそれとうらやましがらなくなった。

というのは、程度はどうあれ自分は困っていたということと、自分の悩みは(自分で感じた時点から)実在しているものであり、自分にとってとりあげる価値があるものだということを自分で認めたからだと思う。

ただ今でも気を抜くと、一体ここしばらく自分が抱えていたうつのようなものは実は全然うつなどではなく、立ち直ろうとすればもっと早くに復帰できたのではないか、だとか、一体自分が動けないと感じているときに本当に動けないときなどあっただろうか、動けたはずだ、半分は仮病だ、この怠け者などと考えることがある。

自分は頑張りすぎからうつのようなものになって心身の調子が悪いと言い張っているけれど、結局環境の激変に堪えられなかっただけじゃないかとか、なにからなにまで効率悪く頑張りすぎるからそういうばかなことになったのだとか、考える。

自分はうつになるほど頑張っていたわけでもないんじゃないか、と疑問がわく。

そういうものを潰しては今の自分の価値観を反復し、自分の中の批判的な自分の声を黙らせる。

軽度とか重度とかそんなので他人と比べるのはやめた。自分の内側のことを、専門家でもない人に反論されて頭の隅で疑問符を浮かべながらゆさぶられるのもやめた。

今の自分の状態の把握(自分がどのくらい困っているかも含めて)と、それをどこへどう持っていきたいかを明確にすることに集中する。自分が普通か特別かという点に縛られなくなった結果、安心していろんな可能性を探ることができる。今はadd/adhd関連の文章を読むのが自分のなかの流行。ひとつひとつ仮定して吟味してみて、気づかなかった問題に気づければそこから生活改善の糸口も見えてくる。

自分を直視することは前はとても嫌だったけれど、今はまんざらでもないな。そのままの自分を受け入れたら、もう無理することも隠すこともない。楽。

 

さて、眠くなってきたからそろそろ切るよ。またのろのろ書いてしまった。

おやすみなさい。

 

(推敲なし)