クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

生き方とどう生きるか

私は1年ほど前までアイデンティティの一部をアニメなどを好むいわゆるオタクであるというところに置いていて、きっとそれは一生続くだろうしそういう趣味のために働くんだろうなと思っていました。ただ、それが去年の前期にはすべてがどうでもよくなってしまって、なんで実在しないキャラクターのことを考えたり特に自分にプラスになるわけでもないものに時間やお金を費やしたりするんだろう、とまで感じるようにまでなりました。(当時はエネルギーがとにかく足りなかったせいもあります。今書いたことについては自分ではもう少し考えが進んでいますがここでは省きます。)

それまでは自分なりに価値のあるものとないものを無意識にわけていたような気がします。ただ、今まで自分が好きだったものが、別の人にとってはまったく価値が感じられないということ、また、自分が価値を感じられないものに価値を感じている人がいること、そういうことに思いをはせた結果、(もちろん人間ですからその傾向が100%なくなったとは言いませんが、)すべてのものには価値があり、また価値はなく、いや客観的に決まった価値など本当にありはせず、すべて「特定の団体や個人にとって」という基準がつくもので、真に「価値」というものは存在しないのだから、「自分にとっての価値」や「自分が属している団体にとっての価値」くらいを押さえておけば、もうそれでいいのだと思うようになりました。それまでの私はどちらかというと「真実の」「客観的な」「正しい」価値判断基準を自分の中に培おうとしていましたが、そう考えることで自分個人の感覚や性質に、よりクローズアップしていけるようになった気がします。自分個人の感覚を見つめるというのは、自分のQOLを高めることに役立つように思います。

何かを好きになるというのは、実はかなり適当で運の産物でもあると最近思います。何かを嫌いなとき、ほとんどそれはそのもの自体が悪いわけではないとも思います。まあとにかく、自分のアニメ等に対する不自由なこだわりがなくなってからしばらくして、何か趣味を持ったらいいかしらとなって、初めて「趣味を探す人の気持ち」になりました。どうせなら何か一石二鳥が狙えるようなものがいいと考えると、どうしても結論が「美容」「健康」「運動」に何度でも集約してきて、大変面白いと思いました。私はそれまで美容が趣味の人はそういう自分でいたい人やそういうキャラクターでマウンティングをしている人か何かだと思っていました。健康が趣味の人はどうも不自然だと思っていたし、運動が趣味の人は運動ができる人か、根本的にどこか感覚が自分とはまったく違う人なのだと思っていました。しかし、どれも改めて取り組んでみると心地よく、奥が深く、楽しめる部分もあるのだと感じました。

ところで話が少し飛びますが、何のために生きるのか、何のために働くのか、という問いがあります。冒頭に書いたように私は最近まで、アニメに限りませんがしたいことをしたいときにするためにはお金が必要で、そのために自分は働くのだと思っていました。ただ、それらはもう全部メインからサブやマイナーへ移行していて、どうせなら新しい理由や目的、動機、生きがいやりがいを一応でもはっきりと言語化したくなりました。道に迷いだしてから「生きる」を選んだ最初の理屈は、「まだ残機があるから」で、それから少しずつ積み重なって今日まできています。ここでこのまま思いつくだけ書こうと思いましたが、時間が足りなくなってきたので、続きはまた今度。

 

 

余談ですが、どうしても断言するのには不安があって、語尾が「と思います」「という気がします」「と感じます」ばかりになって、結果的に読みにくくなっているのでは、と思いながら、でもまだ自信がなくて、まわりくどい書き方になっています。そのうちそういう部分にも手を入れていく。