クラゲフラグメント

人生の意味がわかってたまるかと思っていた頃の自分へ

20160709

語弊を恐れずに言うと、かなり調子を取り戻した。

結局、「全てがおっくうな感覚」や「ベッドから起き上がれない感覚」、「全てがいやでひたすら泣いているときの感覚」をまともに再現可能な形で覚えていることなんてできないのだ。少なくとも今の私には。

大事なのは、その感覚が分かるかどうかよりも、自分と違う感覚を持つ他人の存在を尊重することで、まあそれはいつもできることではなくても、少なくとも失礼なことを言ったり傷つけたりしないように、他者と接するときの技術を身につけることだと思った。

感覚は分からなくても、提示されているヒントから推察することができる。どうふるまったらいいか考えることができる。(そのときに用いる価値観についてはまた別途精査するとなおよい。)

私の感覚にぴったりくる言葉が必ずしも同じ感覚で受け止められないように、人は言葉に対してそれぞれの感覚を持っていて、また、物事を独自のフィルターを通して見ている。だから、自分の受け止めたように受け止めてもらうには、自分にはしっくりこない言葉遣いで話す必要があるときもあるだろう。(大体私は変に厳密にとらえすぎるのだ。)

むしろ、自分の意味の受け取り方はかなり偏っている自覚を持って、相手の言葉をそのままうのみにせずに、こういう意図でこういう表現になっているだけだ、とか、いったん修正してから内容を受け止めると、カチンときたり些細な部分にこだわったりすることなく、コミュニケーションがうまくいくように思う。相手の言葉をいったん冷静に眺めて、必要な部分だけ取り込むというのはえり好みの曲解で偏りの原因だと思っていたけれど、必ずしもそうではなく、自分の高めたい方向への推進力にもなりうるようだ。(ちょっと抽象的な表現になってしまった。)

 

自分について、どういう自覚を持つか、またその自覚がどう働くか、というのはややこしい問題だ。例えば、ある人は「自分は頭が悪い」と思っていて、だからこそ手抜きをせずに勉強をする。またある人は「自分は頭が悪い」と思っていて、だから勉強する気がおきない。「自分は頭がいい」と信じているからこそ頑張り続ける人もいるし、「自分は頭がいい」からろくに宿題もしないひともいる。

テスト勉強をしているのに「やっていない」という不可解な人たちは「やっていない」からこそまだまだやる、という面があるのかもしれない。

自覚や認識が事実と大きくずれていると大概、計算違いを起こす(からこそ、正しく事実を認識せよという流れがあるわけだ)が、上記のようにある場合はうまく働くこともあるし、正しく認識していれば必ずうまくいくというわけでもない。

 

まあ、こんな話がしたかったわけでもないんだよ。

こんなのは大事だけどどうでもいいことだ。

何かを大事にしているのと同じぐらい、どうでもいいこともたくさんある。

それを、大事にしている別の人の前でわざわざ「どうでもいいじゃない、それ」って無遠慮に攻撃しないなら、どうでもいいと思っていること自体は関係に決定的な日々を入れる直接的な原因にはならない、ということ。

 

レポートやりたくないよーーーーーーーー